雨水林檎(2022/03/25)
兄として全ての義務を終えたその日、僕は東京で三年勤めた場所を後にした。その三年間は文字通り身を削られて、今ではこの身体の力は無く。それでもこれからのことは考えずに耐えきれず突然仕事を辞めたその行為に、限界はとうに訪れていたのだと。
弟も成人して高校を卒業したから、今ではすっかり僕を嫌って二人の会話もないけれど。
だから、もう良い。どこにも僕がいなくても。
***
この頃『百歌』の話題で日本のアーティスト界隈は賑わっている。
モデルとして彼のプロフィールは公開されておらず本名はおろか年齢も非公表。唯一の繋がりである全ては清河透馬(きよかわとうま)が描くもの、彼は写真から油彩まで垣根を越えて百歌をモチーフに現代の孤独を表現していた。今までだってほどほどに彼の名前は知れ渡っていたものの、百歌の登場で一気に透馬は国内の人気アーティストに登り詰めた。それでも百歌は、透馬だけのもの。
「清河さんの次回作って期待されていますよね」
「年内には、また何か動きますよ」
「百歌個人でのメディアへの露出は? 今、最も期待されているんじゃあないですか」
「彼はあくまでモチーフの一人、必要があればそのときは」
雑誌の取材を終えたらもう日も暮れていた。百歌、そう、どこに行っても皆、百歌のことを。透馬自身、正直ここまで彼が注目されるとは思わなかったし、自分でも未だに信じられないところはある。わかっている、今この舞台に立てているのは実力なんかじゃなくって、全ては百歌の持つその魅力であるのは。新宿駅の広告は続いている『百歌の百面相』。撮影した日、本人はそれは嫌がってはいたものの、いざとなってはこうして体現してしまうのだから。
その才能は彼の生まれ持ってのものだ。スマートフォンで百歌の広告を撮影する高校生、大して年齢も変わらないのに百歌の目にはその幼さは無い。よほど苦労をして生きてきたのだろう、彼自身多くは語らないが透馬だってその辺の所はなんとなくわかっている。
「あいつは今夜は何を食べるかな……」
俺は自身きっと寂しい独身生活を送っている男だと思われている。女性にはそれほど縁は無いのか、長くはいつも続かない。でもそれが相手を間違えていたのだと、本当の縁は違うところにあったのだと、思い知らされたのはここ最近のことだった。マイノリティをきめるわけじゃないが、性別なんか関係の無い縁は確かにある。
「食べられるものは和食とは言うが、肉魚が嫌いだと限りがあるな。煮物の類いも飽きてしまったし……」
でも、無理しても食べられないのだから仕方がない。
それは透馬の好みではなくてそもそも透馬には食事に好き嫌いはなかった。何でも食べる、量もいくらだって、だからこうして身長も伸びたのだろう。周りより頭一つ分大きい。その辺を考えるとどこまで彼がろくな食事をしてこなかったのか、おそらくストレスもあったのだ。自分の居場所を見つけられず日々気疲れに疲弊して、手作りの温かい料理も知らない。だから透馬は今夜も夕飯は手作りする。時間のない日はともかく、まだスーパーマーケットも開いているし、料理だって不得意でも無いのだから。一人暮らしが少し長かった、なんてそんな自分の人生の生活スキルがここで役に立つだなんて。
適当に材料を買って、大男に似合わない鞄のなかにしまってあった、パステルカラーのエコバッグを出して入れた。それも一つじゃ足りないから三つのバッグ。これは全て冷蔵庫に入りきるだろうか。スーパーを出て住宅街を直進して、たどり着いたのはファミリー向けの多少築年数のたった小さなマンション。いまや世間を騒がせるアーティスト気取りがまさかこんなこぢんまりとした家に住んでいるだなんて、でも引っ越すつもりは当分無い。取り巻くものが変わろうとも庶民的なのだ、基本的に。それをまた、馬鹿にするつもりも否定するつもりも毛頭無い。
「詩季」
インターフォンを鳴らしてノックは三回の約束、同居人が恐れないように。それでも出てこないのでしばらく待って、もう一回ノックする。ようやくドアの鍵が開いてそっと覗けば、酷く痩せて小柄な青年が立っていた。
「なんだ、明かりもつけないで……詩季、眠っていたのか?」
「体調が悪くて起きていらなくて、歩くとふらふらしてしまって」
「なに? もう、そういうときは早めに俺に連絡をするんだよ」
「でも清河さんだって仕事に行かないわけにはいかないでしょう」
「早く切り上げるくらいなら出来るよ、食欲は?」
「あまり……」
基本的に彼はいつも食欲がない。それを本人が自覚するほど食べられないと言うのは相当何も口にできないのか。キッチンは使った気配がない、朝出かける前に用意した味噌汁と白米すら口にした様子もなくて。
「朝から何も食べていないのか?」
「ごめんなさい」
「俺に謝っても困るよ、お前の身体の話だ」
薄暗い部屋に明かりがついた、その真下で詩季の顔色が相当悪いのがわかる。昨日まで少し連れ回しすぎたからその疲れが出ているのかもしれない。食事が出来ないからあまりに体力がなく、外に出さなくとも調子を崩すことが多かった。
「詩季、何も食べないのはよくないよ。今からおかゆを作るからそれを食べなさい」
「でも、食欲がないので……」
「そう言ってね、ますます痩せてどうするんだ」
上京してからここ数年朝晩問わず必死で働いて少し無理をしすぎてついに身体を壊したのだと言う。おかげでいまでは予定のない日は朝晩横になっていることが多い。ただいつもの眠っている顔も造りがよく、美しい人形のように見えないことはない。
透馬は詩季のために買ってきた食材で食事を作り出した。最初は椅子に座ってその様子を眺めていた詩季だったが、次第に気分が悪くなってきたのか青ざめた顔をして寝室に入って行った。全く、あの体調の悪さはどうにかならないものか。せっかく手作りの料理を用意しても、食べられなければ意味がない。そっと寝室を覗けば詩季は眉をひそめて敷きっぱなしの布団にくるまっている。
本格的に寝室も整えたほうが良いのかもしれない。詩季が日々の多くを横になっているのを思えば、もう少し快適に……とは言っても限界はあるが。
せめて寝心地の悪い薄い客用布団と予備の毛布という環境よりは新しいものに変えるほうが、彼の身体には良いと透馬は思った。しかし正直言うと透馬は別にダブルベッドを入れて一緒に寝ても良いのだが、詩季にとってはそこまでお互いの距離は近くはないのだろう。さらに透馬の体格の良さも、同じ布団で眠ることを難しくしている。
透馬と詩季は身長差二十センチ、体重は二倍近くある。だから詩季の身体と手足の細さでは一緒に寝て潰してしまうのを考えると怖い、だってあまりに細く簡単に折れてしまいそうだから。
「おおい、起きるか、少し何か食べよう」
調理した粥が仕上がって、透馬は詩季に声をかける。彼は青白い顔をしながらゆっくりと起きあがった。寝室まで盆を持って皿を乗せてやって来た透馬はその薄い手を握った、しかしその手は冷たく白く力も無い。透馬は詩季を子供を抱くように胸元に抱え、左で身体を支えて右でさじを。そのとき詩季は少し笑った。
「そんな抱きかかえなくても……僕は子供じゃないですよ」
「自分で食べられるか?」
「はい」
そうして透馬はそっと手を放し少しずつ粥を口にする詩季をじっと見ていた、いや、見とれていた。出会ったのは偶然、彼は拾われもの。出会いは早朝の河川敷で、全てを失いたった一人朝日に照らされた詩季は神々しいほど美しく、多分透馬の一目惚れだった。
***
「ねね、百歌にウエディングドレスなんてどうだい」
「純白の?」
「きっと似合うと思うよ」
清河透馬を呼びつけたのは彼の母校の先輩の資産家であり画家兼、パフォーマー。古城央火(こじょうおうか)だ。彼は鎌倉の地に豪邸を抱え、そこへ数人の気に入った新人アーティストを住まわせる。すると数年後、皆不思議とそれなりのヒットを生み出すのだ。百歌が現れる前にかつての透馬も美大卒業後数年間仕事をしながら央火の家で暮らしたこともあった。和風の街並に西洋建築、寺の鐘をかき消すように彼は早朝からお気に入りの一人である若きピアニストに何か一曲弾かないかとねだる。彼のわがままを聞かないと家を追い出されてしまうため、住人達は朝から皆必死だった。夜通し作品を作る若き青年も少なくないというのに。
「一人この前パリ修行から帰って来たばかりの子がいるんだ、でね彼のデザインしたドレスがしっとりとしてこれまた美しいんだよ。百歌はまだ二十歳過ぎ、純粋な表情にウエディングドレス姿なんてインパクトのあるアート作品になると思うけれどね」
そう言った央火自身が独特なファッションで時には女装家を気取り特注のドレスをまとっている。しかしそんな彼のお気に入りとなると、よっぽど奇をてらったデザインなものではないか。
「百歌の性別わかってますよね、詰め物をして無理矢理着せても身体にはあまり合わないと思いますが」
「ふふん、オーダーメイドさ。もう注文してしまっているよ、そろそろできあがるんじゃあないかな?」
「それでは、今更俺に聞くことじゃあないでしょう」
「いやあ一応保護者である君にも報告しておかないとと思っていてね」
これだ、いつもこうして周りを振り回すのだ。しかし、百歌の身体にあった特注のドレスならそれなりに似合うだろうし良い作品になるかもしれない。百歌は性別を超えている、しかしその若さが表現できるものは無限であり有限であるから、今後を考えていまのうちにそんな作品を作っておくのも悪くない。
「君、いつ暇?」
「来週末には学校も落ち着きます、客寄せパンダも忙しいんですよ」
「おやまだ君は講師なんてしていたのか」
「お誘いをくれたのは先生でしょうが」
絵画を諦めきれずデザイン会社を辞めてフリーとして活動していた当時、透馬は参加したサブカル系メディアのコンセプトアートを通して人気が出て来た頃、それでもまだまだ無名。画業を手がけるにしてもそれだけでは生きて行けないと相談すれば、コネのある美術専門学校での講師の話を持ってきてくれたのが央火だった。透馬をここ数年で最も活躍が期待出来るアーティスト、百年に一人の逸材だとかおおぼらを吹いて。まあそれは百歌の登場によって、あながち嘘でもなくなったわけだが。
今ではよく透馬は学校の広告に使われるようになった。近年入学が決まり上京する学生は、時に透馬に過剰の期待をしている。
「じゃあ都合のつく頃百歌を連れておいで、花見しがてら私の屋敷で些細な会食パーティーと打ち合わせをしよう」
「パーティーは結構です、百歌が疲れるので」
「また調子が悪いのかい」
「食事が摂れないんですよ、おかげでここ最近さらに痩せてしまって」
「それはそれで人間が人形を演じているとも思えば芸術的で悪くはないがね」
「そんなものより健康のほうが大事です、あの子の人生はまだこれからなんだから」
***
今晩はうどんにしよう。
そう思ったのは央火の屋敷から帰り際に電車の乗り換えに使ったターミナル駅のホームだった。立ち食いそば屋が美味そうだ、でもきっと詩季は薄味のうどんの方が好きだな。柔らかくすれば、消化も良く食べやすい。しかし両手には央火から押しつけられたイタリア土産の菓子がある。住み込みの誰かにもらったが飽きたのだろう、透馬は味が濃い菓子は好きじゃ無いし、詩季がそもそも菓子なんて食べているのを見たことが無い。
「まあ良い、とにかくうどんだ。スーパーはまだギリギリ開いているか」
急行電車がやってきたのはすぐだった。夕方のラッシュで人が多いから視線に困り、下を向いて透馬は左手で土産物を抱えしばらく右手のスマホを眺めていたが、それも飽きてしまって別の暇つぶしがないものかと考える。そのとき電車がトンネルを抜ける、その先の車窓から見える都会が近づいていた、ああ夜景のなんて美しいことか。
電車は鎌倉から都内へ、その景色の差異はただただ目に染みる。自然の中で暮らすには透馬はまだ若すぎた。もう少しだけ、都会のネオンを走り回っていたい。あの街で作りたいものはまだあるのだから。
透馬が最寄り駅に降り立ったのは午後八時のことだった。彼は今日こそ腹を空かしているだろうか。明日は休みだから静かにゆっくり一緒に過ごしたいところでもあるし。
***
買い物を済ませて、詩季の元へ。
いつものルーティン通りノックは三回。静かにドアを開けた詩季はいつもより少し顔色は良く、透馬を見て少し笑った。
「清河さん、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
透馬の寝間着は詩季には大きすぎる。聞けば一日中今日も横になっていたらしい、それでも割と調子は良かったと。
「お前はお菓子は食べるか? 今日帰りに古城先生にもらってね」
「お菓子、ですか。少量なら」
「ふうん、なんでも外国製のものだってさ。ここに置いておくから昼間腹が減ったら食べなさい」
そうして上着を脱いで手を洗って、黒のエプロンをした透馬は料理を始めた。うどんの麺を茹でる準備をしながらつゆを作る。九州から上京したと言う詩季の口にはきっと白いつゆが合うのだろう。見よう見まねながら出汁を取ってみた。
透馬は生まれてからずっと関東住まいで今でも実家は横須賀でペンキ屋をやっている。鎌倉の古城の屋敷に行くついでに横須賀の実家に寄っても良いのだが、いつも時間が無くてここ数年帰ってはいない。それでも両親はここ最近の透馬の活躍を知っていて、ようやく電話をかけてきては帰って実家のペンキ屋を継げと言わなくなった。海が見えるあの街で再び静かに暮らすのはあと二十年くらい先で良い、そう考えるほどに現在の仕事は透馬にとって興味深く楽しいものだった。
つゆの準備を終えてネギを刻みながら静かに麺を茹でる。二人前を作ってみたものの、詩季は多分一人前も食べない。まあ今日は調子も良さそうだし、少し多めにしても良いだろう。日に日に痩せてきているから、その辺も気にはしないと行けないところ。お菓子でも食べたら多少は良いのだろうに、どうやら昔から食べることには積極的ではなかったらしい。幼い頃から両親の不仲で、手作りの食卓もあまり囲まなかったとか。夕方になればのんびりと一家団欒たまには親戚が遊びに来たりして。しかしそんな透馬の当り前が詩季の当り前ではない。
「詩季、夕飯が出来たぞ。今夜はリビングで食べよう」
リビングと言うほど整った部屋ではないが、食事を食べるには一番広い。しかし数年前、央火からもらった中古の大型テレビは部屋を圧迫し、余計部屋を狭く見せた。
透馬は二人掛けのソファの前のテーブルに、うどんとお茶を用意して。そこへ寝室の明かりを消して、詩季がふらつきながらやって来た。寝癖のつかないまっすぐな髪は艶があって、どんな髪型にもアレンジ出来る。詩季は長い髪を黙ってピンでとめまとめた。食事の邪魔にならないように、そのうなじはあまりに白く、美しい。
「あ……」
「どうした、詩季。食欲はないか?」
「いえ、清河さんの作るおうどんはつゆが白いんですね」
「九州のうどんは白くないのか」
「僕は元々東京の生まれなんです。だから幼い頃の母の作ったうどんのつゆは黒かったのを覚えていますよ。離婚後に預けられた九州の伯父の家にはそんなにいたわけじゃ無いから、郷土料理とかもよくわからないんですよね」
詩季はそう言いつつも、穏やかな表情でうどんの麺をすすっていた。少しずつ、ゆっくりと食事をするその姿に透馬はほっとしながらも早々に自分のものは食べ終えてしまった。まだ詩季は半分も食べていないので、早食いの自分が少し恥ずかしい。しかし詩季はそんなことは気にしていないようで、音をたてることもなく自分のペースで食事をしている。そして半分くらい食べ終えたところで、彼はそっと箸を置いた。
「もう良いのか?」
「残してしまってすみません。十分いただきました、清河さんの料理はいつも美味しい」
「そうか? 誰にも褒められたこと無いよ、自己流だしな」
「でも僕はろくにお米も炊けませんから。就職してからも自炊なんて滅多にしていないし」
「手料理でも趣味にしてみたら良い、きっと食べることも好きになるよ」
「ふふ、じゃそのときは清河さんに習います」
今日の詩季は機嫌も体調も良いようだ。そこで透馬は、思い切ってそれでも少しの気を遣いながら例の案件を詩季に伝えることにした。
***
その日、鎌倉に再び清河透馬が降り立った。春の寒の戻りで冷えた朝に、風邪をひかないよう冬物のウールのコートを着せて来たのは同伴の青年。央火の屋敷までは彼が用意した迎えのハイヤーに乗り向かう。透馬は少し緊張していた、打ち合わせとは言うが央火がまた何か変なことをするのではないかと。無駄に彼を不安にさせるようなことは言わないで欲しい。ただでさえあまり乗り気ではないようだし、それも透馬が頭を下げたからしぶしぶやってきたようなところもある。
屋敷前で車を降り庭園から玄関までやってる来れば、待ちきれなかった央火が二階の窓から身を乗り出して手を振っている。その姿の後ろにはカメラマンらしき男性がすでにカメラを構えていた。打ち合わせだって言ったのに、あれではもう今日から早速撮り始める気分じゃ無いのか。
「清河さん、お話に聞いたドレスはもう出来上がっているんでしょうか」
「あの様子だと想像以上のものが出来たように見えるがな」
「でも僕、そもそも女性じゃあないんですよ?」
「ああ、その辺は……古城先生の言うことだから」
彼の一言で全てが変わってしまう世界。朝を夜にすげ替えることだってきっと彼には容易だった。
「やあ! 久しぶりだねえ」
「ご無沙汰しております、先生もお元気そうで」
「おや、また痩せたようだが……しかしそれでも今日も君は美しい、百歌」
名を呼ばれて、空を仰いだ。
今日は麻白詩季(ましろしき)が百歌として過ごす一日。隣では透馬が少し心配そうな表情を浮かべるから『百歌』として詩季は小さく首を振った、彼に大丈夫だと言うように。果たしてウエディングドレスの出来映えはどうだろうか。二人は静かに、入り口から出迎える家政婦らに頭を下げて、屋敷の中に入っていった。