呪禁と角隠し【試し読み】

文学フリマ東京35新刊予定【呪禁と角隠し】紙書籍版の試し読みです。
内容は電子書籍+後日談の書き下ろし。完結済です。

呪禁と神隠し

海の見える高台の古い屋敷。和洋折衷建築の窓から濃紺の上等な着流し姿の青年がじっと何かを待っているかのように一心に庭を見つめている。ご主人さま、そう呼ぶ声を聴いて彼は静かに振り向いた。

「おいでになったようです、お車がいま玄関に」
「ああ、そのようだね。迎えに行こうか」

夕刻を迎えた屋敷内は人影も少なく、一階の厨房からは食器の鳴る音と食材を煮込んでいる匂いがする。今日の夕食の準備をしているのだ。
玄関前に停められた高級車からは、黒いスーツ姿の酷く痩せた青年が使用人に身体を支えられながら降りて、ふらつきながら横づけされた車椅子に優しく座らされた。そうして彼は玄関を入り庭を通り室内へ。

「ようこそ、ここが今日からあなたのお家です」
「……どうも」
「久しぶりですね、ああ、今日は先日よりも顔色が良いようだ」

応接室で迎えた着流しの青年にそう声を掛けられるも、車椅子の痩せた青年の表情は浮かない様子で、その顔色も言うほど良いものではない。青白い肌にやつれた頬が今日はすっかり疲れている。

「申し訳ないが、移動で少し車酔いをして疲れた。少し休みたい」
「おや、それはよくありませんね。早速お部屋に向かいましょう。あなたの部屋は一階の角部屋。この屋敷で一番日当たりの良いお部屋です」
「ふうん……」

彼の荷物を持った使用人が続いて行く。そうして黙って車椅子を見送る青年の表情は、何か言いたげに憂いていた。

***

海堂透眞(かいどうとうま)の屋敷に鳴神静詞(なるかみせいじ)がやって来たのは冬の終わり、春間際の晴れた週末のことだった。三十半ばの若い主人、透眞が静詞を気に入りこの家に呼び寄せたのだ。しかし彼は三十路まではあと数年とは思えないほど痩せすぎて、すっかり弱り寝込んでいる。病の床に伸びた髪は色素は薄く青白い肌になじんでいた。そんな彼を欲しいと言った、透眞の突然一方的に伸ばした手の理由は今から二か月ほど前、今年の初めにさかのぼる。

「めとる、だって? 俺を……なんだ、正気なのかその男は」

二人きり、灯油のストーブに温められた部屋の中で、言いづらそうに静詞の父は息子にその件を打ち明ける。裕福な資産家である透眞の突然の申し出に彼も若干戸惑ってはいたが、しかし。

「先日、公園を千代音(ちよね)と散歩していたお前を見かけて気に入ったと言ってね、さらに私の絵も数枚購入してくれたし今後とも支援を続けてくれるとおっしゃって。なに、儀式もこだわらなければお前の自由を奪うこともしない、その……性的な関係も望まないとおっしゃって」
「当たり前だ! だいたいそんなおかしな話、もとより誰も気がすすむわけないだろう?」
「いや、もちろんお前がそう言うのはわかっていたとも、しかしね」
「……金か」
「静詞」

近頃はあまり儲からない画家である父を睨みつけ静詞は舌打ちをして目を伏せた。ピクリと動いた長いまつげが、彼の痩せあまりに大きく見える瞳にかかる。目の下にくっきりと浮かんだ青いクマは彼のあまりの顔色の悪さを助長させていた。

「わかっているよ、どうせ俺にはもう今後再就職できるほどの回復の望みもないし、最近では一人で立ちあがり歩くこともままならない。寝たきりの病人をいつまでも遊ばせておくわけにもいかないって言いたいんだろう? 世話をするにも人手がかかるしな」
「おい、私はそこまで……」
「事実は事実だろう、父さん」

沈黙が室内を包んでいた。ドアのむこうでは母が立ち聞きしている気配もする、静詞は孤立無援の状況に長い溜息をつきあきらめた声で呟いた。

「いいよ、いまさらどうなろうとも別に構わない。そうこうしているうちに、もうすぐ俺の人生も終わるだろうし」

それから一週間後、静詞の家に透眞が直々に訪れた。粗末な応接間に場違いのような背は高く聡明な表情で上等なスーツを着て黒髪短髪をきちんと整えた彼を、白いシャツに重ねた寒さ除けのニット姿の静詞がソファに腰かけ出迎える。しかし肩ほどの茶髪はそれなりに整えてはあるが、横になっていることが多いせいか多少の寝癖が付いている。

「初めまして、静詞さん。私が海堂透眞です。二人きりどころかお会いするのは初めてですね、嬉しいですよ。本日は挨拶に、と伺ったのですが体調はいかがですか?」
「良くはないね、しかし気を遣うほどのものではない」
「そうですか、若干お疲れに見えますがご無理をさせていたら申し訳ない。先日お父様の絵画を数点購入させていただきました。あの絵はあなたと妹さんの幼い頃の姿を描かれた絵ですね?」
「よくわかったな、それでもあんな古い絵をいまさら購入する奴がいるなんて」
「お父様の才能に惹かれまして、私には芸術はただ愛でることしか出来ないから。そう言った技術には縁遠いのです」
「俺も芸術一家のあぶれ者だよ。幼少から習っていたピアノも芽が出ることはなく、中学で辞めそれからは本の虫。絵なんて描きたいとも思ったことはない」

画家の父と声楽家の母、四人家族に生まれた静詞は幼い頃から期待され、中学までは著名な音楽家に師事してピアノを習ったりもしていたが、絶対音感どころか何年習っても指が絡んで思うようには動かないままだからあきらめた。一回り離れた妹の千代音のほうがその声楽の才能を見込まれて、現在は音楽大学付属の学校に通っている。成績もよく、皆から今後に期待されていた。

「静詞さんは大学卒業後は新聞社で働いておられたと」
「ほんの数年だ、多忙な生活に身体が持たずにすっかりボロボロに壊して辞めてしまったがね」
「文章を書く才能がおありなのでしょう」
「文字を書くしか能がない、それだけだ。しかし最近では読書すらもすぐに疲れてしまってままならないが。つまらない生活だよ」

食欲もなく、何かといえば熱を出したりと寝込んでいることが多い。静詞自身自分が家族の重荷になっていることはわかっていた。だからと言ってすでに就職して稼いだ貯蓄も尽きて、身体は一向に治る気配すら見せない。先日は起き上がっただけで貧血を起こして倒れ、手の甲にはそのときのまだ治りきらない赤く腫れた擦り傷があった。対比して白く血の気のない痩せた手首を見ていた透眞は、ふわりと優しい声で話しかける。

「私は腕の良い医師を数人知っております、これからはそちらにかかられたらどうでしょう? よろしければいつでも紹介しますよ」
「……どうして俺なんだ」
「え?」
「何故、妹の千代音ではなく俺を選んだ? あいつのほうが俺より一回りも年下だし、なにより健康で美しい」
「あなたのほうがお美しいですよ」
「俺をからかっているのか? この身体のどこが美しいと? 病み、やつれてそもそもお前との子供を孕むことすら出来ない。男だからな」
「構いません、私は別に後継ぎを求めているわけでもない」
「ならば、何故……?」
「後継ぎはいらない、つまり性別は構わないと言ったのです。私はあなたをそばに置きたい、お互いの今後の幸せのためには全力を尽くしますとも。ねえ、添い遂げましょう、末永く」

一心に揺らがない透眞の言葉を聞いて、すっかり静詞はあきれてしまった。本当に、この男は変わっている。しかし本心では一体何を望んでいるのか、けれどそれが性的なもの一辺倒ではないと言うのはなんとなくは理解した。しかしこのような病身をそばに置いて、わずらわしくないのだろうかと。何しろ手間はかかる、一人で歩くことが出来ないからその都度支えてもらわねばならない。以前は一人でもなんとか立ち上がることは出来たが、それでも最近はすぐに疲れバランスを崩し座り込んでしまうことも多い。食事は少食なだけではなく、偏食もひどいから量も食べられず身体は早々に痩せていく一方でもあった。その薄い手指はもう骨と皮。

「いいのか、本当に俺で」
「ええ、もちろん。私のもとに来ていただけますか?」

にこやかに、その甘い誘いの言葉を彼は懲りずに何度も繰り返し吐く。本心なのだろうか、しかしそれを疑うことすらこちらが笑えてしまうくらい、いくら話していても彼の意志は変わらないようだった。

「全く、あんたは実際に会っても変な男だな」

***

道中の車酔いに環境の変化、その疲労のあまり結局静詞は夕食も食べられないままで横になって、そのまま早朝を迎えた。しかし夜中たびたび目は覚めていて、それは身体中の節々の骨があたった痛みだった。痩せすぎた身体では長くも眠ることが出来ない。
時刻は午前四時を回った頃、まだ夜明けにも遠い季節で毛布と高級そうな羽根布団をかけて眠ってはいたが手指末端が冷えて凍える。暖房器具は部屋の隅に小さな電気ストーブが置いてはあるものの、そもそも歩いてそこまで行くことが出来ないのだからどうしようもない。けれどわざわざそのためだけにこんな時間に誰かを呼ぶのもはばかられるし、仕方がないから再び彼は毛布にくるまる。しばらくそうやって寝返りを繰り返しながら眠れずにいれば、どこからか車のエンジン音が聞こえた。
こんな時間に、とゆっくりと静詞は起き上がったが、ぐらりとひどい貧血による眩暈でベッドから転げ落ちそうになり、慌てて脇の壁に寄りかかる。

「……っ、あいつ、は」

窓の外で車から降りてきたのは透眞だ。飲みに行ったにしては正装で身なりは乱れることもなく、使用人に荷物を持たせて颯爽と歩く。一体こんな時間に何の用があったのか。疑いを持ってじっと見つめていたら、ふとこちらに透眞の視線が動いた気がして慌てて枕元のカーテンを閉めた。
こうして共に暮らすことになったものの、結局のところ静詞は透眞を知らなかった。透眞にしたって静詞のことはそれなりの探偵などに身分照会に調べさせただけだろう。つまりまだお互いの距離は遠い。それでももうともに暮らすことになってしまった自身の行動のうかつさもいまさらあきれるが。

「一体、あの男は何者なんだ?」

静詞の心に一旦その疑問がわいてしまえば、この与えられた部屋で横になっているのも居心地が悪くなってしまった。ここはもともと誰の部屋だったのか? 海堂透眞という男には近しい家族はいない様子で、しかしそれでもこんな広い家で一人暮らし。静詞が考えるにこの広さが無駄な気がする。アパート暮らしとはいかないまでも、自分の手の届くほどほどの距離の広さの家に引っ越しても良いだろうに。道中住宅街を車でやって来たがこじんまりとしていても高級な住宅はいくらでもあった。それに彼の財力なら別にいちから建てても構わないだろう。使用人だって何人雇っているのだろうか、運転手に身の回りの世話人、料理を作っている者もいるようだし、よほど金があって仕方ないのだろう。こうして引っ越してくるにあたって静詞の実家にも莫大な金を支払ったようだった。どこまで裕福なのか、それはそれは相当なものには違いない。
そんなことを考えていたら静かに夜が明けて行く、見知らぬ家で迎えた初めての朝がこんなに複雑で疑問に満ちたものだったとは……。

***

夜が明けて家が動き始めた。使用人の足音を聞きながら静詞は用意された白いシャツとカシミヤのベストに着替えさせられ、身なりを整えたのち車椅子に乗せられて食堂に向かった。食堂は一階の中央付近にあり広く高級そうな机椅子の置かれた西洋風の部屋、ドアを開けたら数人のメイド服姿の女性が並び頭を下げて出迎える。静詞の向かいにはすでに髪までかっちりと整えて、しかし生成りのシャツにチェック柄のスラックスという先程夜明け前に見かけた正装姿よりもカジュアルな装いの透眞がすでに席についていた。いつ眠っていたのだろうか、しかし寝不足の様子も見せない透眞はにこりと笑顔を浮かべながら静詞に問う。

「おはようございます、静詞さん。よく眠れましたか?」
「いや、……あまり」
「それはよくありませんね、お身体のためにも気持ちよく眠れるようにこの辺りを一緒にお散歩にでも行けたらよいのですけど。私が案内しますよ、この辺りは自然が美しいから」
「車椅子では移動に不便だろう、ましてやこんな高台では」
「いまに回復しますよ。この家で海を見ながら綺麗な空気を吸って美味しいものを口にしたら、すぐね」

そこへ朝食が運ばれてきた。今日の朝食は西洋風で数種類のパンにドレッシングで和えられた鮮やかな生野菜サラダに、美しく白く艶めいた目玉焼きは半熟で焦げもなく、コーンポタージュスープは濃厚でよく煮込まれて作り立ての熱々とした湯気と甘い香りを立てている。

「いただきましょうか」

にこやかにそう言って透眞は食事を始める。さすがに裕福な生まれのせいか食事の音もたてずにするすると動くフォークとナイフ、その所作も美しい。一方で静詞は食欲がわかずに、フォークで小皿に移した生野菜サラダを少しずつ口にするのがせいぜいだった。

「食欲がわきませんね、やはりご実家に帰りたいですか? 慣れない環境じゃ食事もすすまないでしょう」
「いや、別に……あの家にはもう俺の居場所はないからな」
「数年ほど一人暮らしをされていたと」
「大学に入学してから就職した数年間な、その期間だけでも実家から離れたら昔以上に過ごしづらい場所に変わっていたよ」
「身の回りの環境は時とともに変わるものですからね、私も今はこの家に一人。かつては家族の多い家だったのですけれど、この通りですよ。今では広いばかりで手入れが大変だ。ただここは海が綺麗だから……それだけが私のここから越さない理由ですね」

食堂からも海の風景は遥か青く、潮風に窓の外の木々が揺れて窓枠をカタカタと鳴らしている。

「海は苦手だ、潮風がベタベタとして心地悪い」
「窓越しでは晴れた日は美しい海なんですよ、しかしそんな海をまた恐ろしいという人もいるのは事実です。あまりに美しすぎていまにも飲み込まれそうだって、しかし逆に私にとっては都会のほうが恐ろしい。あんなに人がいたらそれこそ魂まで飲み込まれて息もできない」

透眞の言葉が静詞には意外だった。何もかも受け入れて苦手なものなんてなさそうな透眞がそんなことを言うだなんて思わなかったから。

「まあ、それはわからないでもないな、確かに都会はごみごみしてすぐに疲れる。行き倒れたかつての人々の無数の悪意が渦巻いているようだ。気が付けばいつも息苦しい、俺も都会は肌に合わないよ」
「……静詞さん、大丈夫。あなたのことは心配なさらずとも私がいつまでもお守りしますよ、この家で」

何を透眞はわかった気になっているのだろうか。しかし、その言葉を聞いて何故か静詞は感極まって涙まで浮かべてしまいそうになった。食欲の出ない皿とフォークを置いて、そのまま言葉少なに頭を下げる。

「……ごちそうさま、残してしまって申し訳ない」
「あら、量が多かったですか?」
「少し」
「では量を少なくして食事の回数を増やしましょうか、少量ずつでも回数を口にしていたら体力も多少は付くでしょう」
「そうだな……それでいい、もう、部屋に戻る」

使用人がそっと静詞のそばに寄り、身の回りの片づけをして静かに車椅子を押して退室した。その姿を少し考えるところがあるよう多少複雑な表情で、透眞がじっと見送っていた。

***

「ゲホッ、ケホン、ゴホ……ッ……」

自室に戻って再びベッドに横になった静詞は咳が出始めて呼吸するにも苦労している。環境が変わって疲れが出たのか、じわりと皮膚は汗ばんで熱が出始めていた。

「ゴホン、ゴホッ、ケフッ……ハァ、ア……」

あまりに身体が熱いものだから、もがくようにカシミヤのベストを脱ぎ捨てた。熱が上がっている、そこにあまりに止まらない咳を心配した掃除係の使用人が、そっと遠慮がちに部屋をのぞく。

「失礼致します、あの静詞さま、大丈夫ですか……? 先程からお咳がひどいようで、ああ、随分とお顔が赤いですね」
「熱が、あがって……息苦しい」
「まあ、大変……!」

医師はすぐに駆け付けた。高熱と呼べるほどの体温に表情は固く、明らかに栄養不足の身体のために点滴をすると言ってその細い腕に針を刺す。熱と咳の呼吸困難で朦朧としている静詞は視界の端でいつやって来たのか、その様子を黙って見ている透眞の視線を感じていた。
熱はなかなか下がらない。ぼんやりとした頭で静詞は左腕を軽く上げれば繋がった点滴はもう終わりそうだった。真昼とは言え安静にするためにカーテンを閉められた薄暗い部屋、そこに静詞はふと自分以外の存在に気が付く。

「なに、か、勝手に部屋に入るな……ゴホッ、」
「一応声をかけたのですが、脅かせてしまったらすみません」

透眞がベッド脇の椅子に腰かけ静詞を見守っている。こんな昼間から暇なのだろうか、静詞は熱で朦朧としながらそっと触れてきた透眞の手を払おうとするも力がなくて低い位置を揺らしただけで終わってしまった。

「苦しいですか?」
「よくあることだ、ゲホッ、……べつに、へいき、コフッ!」

その様子が平気にはまるで見えないのは透眞にだってわかっていた。熱の高い熱い頬に触れ、ハンカチでそっとひかない汗を拭う。そして優しく咳が止まらない静詞の胸元にその大きな手のひらを置いた。

「なに……?」
「すぐに治まります、良く眠るように」

その言葉を残して、透眞は黙って静詞の部屋を出て行った。

***

長い夢を見ていた気がする。それは静詞がいつも見ている重く息が出来ないような悪夢とは違って、珍しく穏やかで優しい空気。身体もすっかり軽くなった気がしていた。静詞はゆっくりと起き上がる。いつもの眩暈は少ししたものの、重苦しい熱のある時独特の頭痛はしなかったし、もう咳も出ない。いつも熱が出たら数日は寝込むのに、と不思議に思うと突然部屋のドアが開いた。

「おや静詞さん、起きましたか」
「ひっ、なんだ、急に開けるなよ……」
「失礼、ノックを忘れましたね。少しでもそばで見守っていたくて」
「なんだよ、それは」
「ああ、熱は下がりましたか。良かった、随分と顔色も良くなったようで」
「……今日診察に来たのはどこかの有名な医者だったのか?」
「いえ、急ぎだったので近くの診療所の老医師に依頼しただけですよ」
「そうか……」

運が良かっただけなのかもしれない、たまたまその医師の腕がよかったのだろう、と。

「静詞さん、喉が渇いたでしょう? 熱も高かったことですし脱水を起していたらいけない。何か飲みましょうね、汗に濡れているようだから着替えも」

そう言って透眞は廊下に向かって声をかけた。すぐに使用人が一人、コップと氷の入った飲料水、それに真新しい白いシャツを持って来る。そして部屋は再び静詞と透眞の二人きりになった。

「着替えましょう」
「お、お前が着替えさせるのか?」
「いけませんか、主人は私ですよ。ただあなたを好んでのことですし、連れ添いとしてこれくらいして当然でしょう?」
「何もしないだろうな」
「汗を拭って着替えをするだけです、何を想像しているのですか」
「お前の普段の言葉を聞くと信用できない」
「ふ、まだ私の何を知っていると言うのです?」

透眞は静詞のしわになって汗に濡れたシャツをゆっくりと脱がせてゆく。汗ばんだ肌は白く痩せて骨格がくっきりと浮かんで、それを見られる静詞はどこか恥ずかしい。

「華奢な骨格していますね、肩幅もそこまで広くないしまるで女性のようだ」
「それを気にしているんだよ、言うな」
「ああ、それは失礼しました。悪意はないんですよ」
「お前に男と見られないのもどうせこのせいだろう?」
「まさか、私はあなたを女性としてみているわけではありません」
「どうだか」

白い手拭いが肌を滑る、汗ばんでいた熱い肌はいつの間にか冷めて冷たくなっていた。透眞の手のひらの方が熱いくらいに。

「寒いですか? もうすっかり冷えてしまって」
「平熱も低いからいつも身体が冷たいんだ、手足は夏でも冷えて凍える」
「ではこの家で寝起きするには寒いでしょう? 朝晩は冷える屋敷ですし、布団の掛物を一つ増やしましょうね。あまり体調を崩して寝込むのも良いことではありませんから。さあ、新しいシャツを着ましょう、手を伸ばして」
「袖を通すくらい自分で出来る」
「どうして? 甘えていただいて構わないのに」
「……見るな、こんな骸骨みたいな痩せた身体を」
「何も恥ずかしくなんてない。美しいですよ、まるであなたの全てが透けるようだ。触れただけで脈打つ胸も、青い血管の浮いたこの皮膚も……いつか心の中までもお互いに透けるようにわかるような、そんな関係になりたいものですね」

何故そんな言葉を次々とこの男は並べるのだろう、変わった男だと静詞はつくづく感じていた。女相手ならまだしも……。

「男女の別なんて関係ない、あなただから良いのです」
「そ、それは俺を口説いているつもりか?」
「いけませんか」
「……べつに、興味ない、が」
「ふふ、照れちゃって、正直少し嬉しかったのでしょう? あなたは意外と表情に出るお方ですね、かわいらしい」
「なにを……で、出ていけ!」

突然のからかいに静詞の頬は赤くなる。それはまた熱が出たわけではなくて、透眞の吐いたその言葉だ。透眞はそんな静詞がさらにかわいらしいとくすくすと笑う。

「あらあら、待ってくださいよ。まだシャツのボタンを留めていない」
「だからそれくらい自分で出来るって!」
「私がして差し上げたいんですよ、ほら、出来た。はい、ごめんなさいね。もう変なことは言いませんからどうかご機嫌をなおしてください」

透眞は動ずることなくさっさとボタンを留め、そして着替え終わった静詞のシャツをまとめる。そしてまた来ることを伝えて部屋を出た。

「少し横になっていたらどうです? 起き上がって疲れたでしょう」
「あ、ああ……そうする」

透眞が去り急に静かになった自分以外誰もいなくなった部屋で、ベッドに横になりながら静詞は両手で自分の頬にぺたぺたと触れて戸惑いながら考える。

「俺はそんなに表情に出る……のか?」

未だ夕暮れの早い季節。少し眠った静詞が目を覚ますと、ちょうど使用人が夕飯だと伝えに来て、起き上がった彼は車椅子に座り食堂に向かう。すでに待っていたにこやかな透眞とその机の上には朝よりも料理は質素で見慣れたものに変わっていた。

「これは……」
「昼に電話をしましてね聞いたんです、ご実家にあなたの好物を。生野菜よりもゆでたものが好きだって。ごはんは食べやすいようにおかゆにしました、薄く塩味をつけてますよ」
「いや、べつに俺もそこまでなにも食べられないわけでは……」
「口当たりの良い食べなれたものなら口にしやすいでしょう。美味しいものも食べていただきたいものもありますが、今は辞めておきましょうね。でも、この街にも素晴らしいものはたくさんあるんです。いつかあなたと一緒に食べたい」

病人食と言える食事だったが同じものを透眞も一緒に食べた。朝は食欲のなかった静詞も慣れたものだったせいか少しずつ野菜スープを口にしている。ゆっくりと味わうようにさじを口に運ぶ静詞を、透眞は優しげかつ満足そうに見つめている。早々に食べ終えてしまったが、静詞の食事が終わるまで透眞は部屋に帰ることはなかった。やがて食器が空になるとにこにこと笑顔を浮かべ、ぱちぱちと小さく手を叩く。

「ああ! ようやく全て食べた、良くできました。偉いですねぇ」
「やめろよ、俺はそんなに子供じゃない」
「あら、すみません、もちろん別に馬鹿にしたわけではありませんとも。ただあなたの全てがかわいらしくていとおしいのです、いけませんか?」

透眞という男は周りの視線を考えないのかと静詞は思う。食堂に二人きりのわけじゃない、使用人と言えども周りに人はたくさんいるのに。他人のいるところでそんなことを言うな、その思いを込めて静詞は一言、うるさい、と吐き捨てた。
静詞は食事を終えたので食後の安静のためそのまま車椅子に乗せられて部屋に戻ることになった。にこやかに静詞を見送った透眞、静詞が部屋から出てしばらくののち、古参の使用人の一人である二宮が透眞にそっと耳打ちをした。

「透眞さま、本当にあの方でよろしいのですか? 見る限り体力もなく顔色もひどく悪い。しかもあんなに痩せてしまって……そばに置いていてももう時間の問題かと」

その言葉に今まで穏やかでにこやかであった透眞は、じろりと表情を変えて二宮をにらみつける。

「うるさいね、二宮、お前はときどき余計なことを言うな」
「お父上の時から勤めるこの家の古くからの使用人として、心配しているのですよ」
「僕はあいつが気に入ったんだ、どんなことをしてでも生きながらえさせてみせる。そのためにこの能力を受け継いだようなものだと思っているからね。いいか、これは一つの運命なんだ。もはや世間から忘れ去られた家系の末裔として……わかるかい? 僕は現代の呪禁師なのだよ、二宮」

(つづく)