からだをたいせつに

雨水林檎(2022/04/26)

「神尾さんね、それ以上無理を重ねたら責任はもちませんよ?」

 駅前のクリニックの飯村医師とはもう八年の付き合いになる。先代の主治医は彼の父親で、跡を継いだ彼とは年も近いからそれほど気を遣うこともない。彼の方もそうなのか、言葉の選び方に容赦はなかった。

「普通に日常を送ってるだけです、それが無理なら別に」
「別にじゃないでしょう、少しはその不摂生をやめる気にはなりませんか」
「大半の原因が仕事ですから」
「じゃあ生徒さんを大切にするくらいあなたの身体も大事にしてくださいね」

 薬局で薬を処方されて、外に出たら夕方だった。休みは病院で終わってしまうのが納得は出来ないが、ここ数年は入院沙汰もない。幼いことから別に重大な疾患があったわけじゃなく、ただ、身体のどこそこが弱い。例えば眩暈だけでもいくつかの理由があって、高校が終わるまでは体育も見学。勉強には苦労しなかったぶん、心の中ではしゃくだった。それから十年、高校教師。

「神尾先生?」
「……金寺」
「あ、やっぱり神尾先生じゃん。やほーどうしたの、病院。風邪?」
「別に、繁華街は六時以降禁止だぞ。さっさと帰るように」

 まずい生徒に出会ってしまった。金寺翔太は金髪にして、首席。勉強は出来るから校則違反を叱り切れない。反省文なんて十分で終わるし、校庭十周も平気な顔。教師達の中ではどうしたら彼が反省するのかと意見をかわすが、未だ答えは見つかっていない。

「神尾先生、月曜日数学でわからないとこあるから教えて」
「金寺にわからないところなんてあるのか?」

 金寺は黙って昔のアイドル気取りでウインクと投げキスのまねをして、駅前商店街に消えていった。そのノリ、彼はどう接したら良いのかわからないところがある。

 ***

 週明け、約束の月曜日は忙しく、昼の段階でもう体調が悪い。午後の授業が終われば少し休めるはずだったのに、その後金寺との約束があった。その本人が保健室にいる。

「あら、神尾先生どうしました。横になります?」
「いや、その……金寺なにやってるんだ」
「あ、神尾先生じゃん、おはよー」
「もう昼だよ」

 朝から金寺の姿を見ないと思ったら先程来たばかりらしい。遅刻はうまいこと計算してしていると言ってその辺に関してもずる賢い。彼がいなかったら昼休みだけでも保健室で事情を話して横になろうと思ったんだ。しかし生徒にそんな姿を見られたらなめられてしまうじゃないか。

「……なんでもないです、戻ります」

 秒でドアを閉めて、他に休み場所を探しに行く。身体が重く、目の前が揺らいで気持ちが悪い。

 ***

「先生どうも、おまたせしまして」
「金寺……人を呼び出しておいて来ないとは何だ」
「へへ、ちょっと男子会が楽しかったの」
「用がないなら俺は職員室に戻る」
「あ、待って待って」

 もう夕方、誰もいない教室で金寺が通せんぼ、後ろ手で教室の鍵をしめた。

「金寺……何だよ」
「先生、身体弱いでしょ?」
「お前には関係ない」
「顔色悪いよ、ここ最近。疲れちゃった?」
「不良生徒が放課後呼び出すからな」
「えっ、俺不良じゃないけど」
「帰る」

 教科書も持っていなかった。やる気のない彼を無視して部屋から出ようと試みるも、どうしても通してくれない。ふざけている金寺と相反して、気分の悪さがぶり返し眩暈で座り込みそうになる。平衡感覚がわからなくて、怖い、ここで倒れるのは……。

 ***

「神尾先生」
「え……?」

 一瞬目の前が暗くなったのは覚えている。しかしそれからのことが曖昧で、気がつけば金寺の膝に抱かれていた。何が何だかわからない、金寺は黙って俺を見つめている。

「な、なに……」
「驚くのは俺の方だけどさ、いきなり真っ青な顔して急に床に崩れ落ちないでよ。大丈夫なの?」
「だいじょ……、ッ! 痛いな、何するんだ?」
「細い。真っ白い手だねえ、骨張ってる。痩せすぎじゃない?」
「足を、どけろよ」

 金寺に左手を踏みつけられている。どけろと言ったにもかかわらず、彼は逆にさらに強くぐりぐりと踏みつけた。痛みを堪えていると小さく笑って、続いてその足は頬を蹴り飛ばす。

「先生の弱ってる顔見るといじめたくなるんだ。ここ最近青ざめたして顔して気分が悪そうにしてたね。身体弱い? 病弱なの?」
「別に、忙しくて疲れていただけだ」
「ふ、かわいい」

 起き上がるのも敵わず、さらに肩を蹴られて床に転がり痛みを堪えるしかなかった。危機感は感じている、この力じゃ勝てるわけがない。金寺の表情はいつもとは違って、いたぶる快感を堪えきれない冷たい目をして薄く笑ってこちらを見下ろしている。

「ああネクタイ邪魔だね、外そうか」
「金寺……! いい加減に」
「わ、白くて薄い胸だねえ……すっかり骨浮いてるし、これじゃ強く蹴っただけで簡単に折れそう」
「なに、やめろよ、おい」
「ははっ、さすがにそこまではしないよ、でもさ、その代わりに助けって言って? 泣いても良い、俺にやめてくださいって懇願してよ」
「……歪んでるな」
「うん、自覚はしてる」

 そのとき廊下の向こうから男子生徒数人の声が聞こえた、金寺、そう呼んでいる気がする。

「ああ、みんな来ちゃう、行かなきゃ。ねえ先生、ここで今日あったことは内緒だよ。俺、ずっと神尾先生のことが好きだったんだ。また二人で過ごそうね」

 ***

 誰もいなくて静かになって、日の暮れた教室でようやく起き上がると床に転がったネクタイには金寺の足跡がついていた。こんなことをされながらも、生きる力にあふれる金寺が少しうらやましかった。誰かを支配することが出来ずにいままでやって来て、このざまの俺は。

「普通に日常を送っている、か」

 自由のきかない身体で、金寺に踏みつけられる。その感覚にぞくりとした。怖かったとか痛かったとかそう言った感情だけではない。それでも良いと思った、本性を見抜かれて軟弱なこの身体を支配されたいと思ったのだ。それは金寺の知っている、この胸の奥の愚かな感情だ。
 身体を大切に、それが出来たら踏まれてない。

【終わり】