この薄寂しい世界の果てから

雨水林檎(2022/04/16)

今から思い出せば何しろ僕の兄は忙しい人で、いつもただ彼の背中を見ていることしか出来なかった。嫌われたくないから、ただ邪魔にならないように見つめている。それを許してくれる間だけは、僕はここにいても良いと思っていた。兄自身に確かめたわけではないけれど。

「お前と次会うのは月末か、季節も良くなったし撮影も楽しい」
「帰って来たら写真見せて、僕もいつか行ってみたい」
「気に入った作品が出来たらな、運不運もあるんだよ。まあそれすらも自分の物にしていかないと長く息が続く作家にはなれない」

風景カメラマンの彼は、季節が変わる毎にカメラを持って出かけて行く。年の離れた兄弟には両親はおらず、僕と兄はこの世で唯一の家族だった。僕が中学生までは撮影もあまり行くことはなかったが、僕だってもう高校生。一人で自分のことは出来る。ただ、たった一人の留守番の寂しさは、いくつになっても変わらなかった。

「電話してね、兄さん」
「電波が通じたらな」
「そんな奥地に行くの?」
「撮りたい物がそこにあれば」

いってらっしゃい、玄関から見えなくなるまでいくら手を振ってもその背中は振り向くことはなかった。

***

「……ゲホッ! ゴホゴホッ、ゲホンッ!」

兄が出て行く前から、時折咳が止まらなくなる夜があった。息苦しくて、でもなかなか咳はとまらなくって。市販の咳止めは一箱飲んでしまった、それも効き目なんてあったのだろうか。僕は体調は日々悪化している気がして、熱っぽいから体温計を探したけれど、探すのもおっくうなまま数ヶ月が過ぎていった。兄はまだ帰らない。

「ゴホォッ! ゲフッ、ゴホゴホゴホ……ッ! ケフッ……カフッ」

吐き出した痰に血が混じっている、最近何度かあることだった。喉が炎症でもおこしていたのか? そのときうっすらと僕はかつての世にはびこった不治の病も想像したが、現代ではもうとうに途絶えたはずだ。少なくとも身近に感染者なんていなかった。

***

「海波(みなみ)いるぅー?」

夏休みもそろそろ、のんきな声がインターフォンから聞こえてきた。兄の友人の笹川だ、大学を浪人した上に二回留年している。未だに卒業はしていないらしい。そんなマイペースな彼だが、何故か兄とは仲が良かった。高校の同級生だったらしい。

「こんにちは、兄は撮影に行ってますよ」
「えっ、まじでまだ帰ってこないの。せっかく美味い酒持ってきたのになあ」
「僕もあと四年したら付き合えるんですけどね」
「はは、そうだな楽しみにしてる」

笹川は勝手にさっさと部屋に上がり込んで、リビングに上がり込んでから菓子の入っている戸棚から兄のおつまみをみつけて勝手に封を開けてしまった。そして件の美味い酒を飲み出す。カップに注いだだけでも酒臭さに僕は胸元が焼けるようで、再び咳き込んでしまう。

「なあ秋ちゃん、お前変な咳するよな。とまらないし……風邪か?」
「それが薬飲んでも効かなくって。市販の薬って弱いのかな」
「なに、全く効かないのか?」
「うん、咳き込んで眠れない夜もある。夜になると熱もある気がして……まあ、気のせいだとは思うんでけど」
「……秋ちゃん」

笹川の顔が変わった。少なくともいつもの彼のふざけた表情ではない。

「海波には言ったか?」
「話する時間もありませんでした、帰ってすぐにまた出かけてしまったから」
「病院行こう、今日は日曜だから、明日の朝にでも」
「笹川さん? やだなあ、おおげさですよ」
「おおげさで済んだらそれでいいの」

***

笹川はなんとも言いようのない表情をして帰って行った。時たま止まらないだけの咳が、そこまで恐れる物だろうか。しかし、それがもし大変な事態を引き起こすと言うのなら、兄さんはすぐに帰ってきてくれる? 僕は多分、ちょっと寂しかったのかもしれない。

「……ケホンッ、ゴフ、コフッ!」

咳が止まらなくって目が覚めてしまった。時計は深夜の三時を示していて、まだ朝は遠いのかとため息をつくも、すぐにまた咳が止まらなくなった。服が汗でびっしょりと濡れている。汗をかくほど寝苦しい。やはり熱があるのだろうな、無性に兄が恋しくなって、こんな時間だというのにスマホを手にする。やめようかな、でも。

両親は僕が幼い頃に事故で他界してしまった。僕は物心つかない頃だからまだ良いとしても、兄は不安で寂しかっただろう。祖父母に育てられたが、それも次第に難しくなってしまって兄は今の僕よりも辛かったかもしれない。それでもようやく手にした夢を、僕は彼から奪いたくなかった。ロック画面のままスマホは置いておくことにした。とりあえず笹川と病院に行ってから、不必要に心配させたらいけない。そのときだ、突然息が止まり、喉の奥から熱く鉄くさいものがこみ上げてくる。

「……ッ、ゴホ、ゴホォッ! ゲッ、ゴフッ、ッ……カハッ!」

咳と一緒に血液があふれ出した。咳をするたびに白のシャツもシーツも赤く染まって。それでもまだ息が止まらないほどに繰り返す。息が出来ない、怖い。この身体の中で確実によくない事が起こっていて、それはもう僕にはどうしようもないと言うこと。遠ざかる意識に血に塗れた手でスマホを引き寄せて、ああ、どうしよう、血だらけでパスコードがうまく解けない。

「た、たす……ゴホ、ゲホッ」

助けてって言ってもいい? ただ、いますぐ兄さんの声が聞きたかった、ただいまって言って、早く帰って来て。この身体がまだ動くうちに。

***

それからのことはしばらく覚えていなくて、早朝にやってきた笹川が僕を見て声をなくしていたのを覚えている。服から手から汚れていたから、着替えることも出来ないままの。

「秋ちゃん、海波帰ってくるって」

白い部屋の中で、笹川は僕を見て青ざめた表情ながらも小さく笑った。ああ、ようやく兄に……初めて僕の頬を涙が伝った。その意思が彼の夢を邪魔するものだったとしても。悪い弟だった、それでもせめて一回くらいわがままを言わせてください、兄さん。

身体は重く意識は遠ざかる、もうすぐ叶うはずの願いを夢見ながら。どこからか聞こえてくる足音は兄のものだろうか? ようやく会えるね、兄さん。その願いの叶う瞬間を思い、頬には涙が流れて消えた。僕がいまこの世界の中で一番の幸せものなのは、きっと間違いのない事実だった。

【終わり】